2025.08.23

【虹の橋介護の取り組み】 「かたりべの会」戦争体験談を語る

令和7年8月20日(水)コートダジュール虹の橋にて「かたりべの会」 を開催しました。

令和3年春より始めたかたりべの会では、入居者様が戦争体験を話し合う場となっております。

私たち職員はその体験談を記録しており、できるだけ多くの記憶を残したいと思います。 

102歳女性の方の体験談

当時わたしは女子挺身隊として働いていました。

配置先は長尾工場(佐古)で、戦争で軍需工場となっておりベアリング製作をしておりました。宿舎にもなって避難場所にもなっており、もしそこで働いていなかったら今の私はなかったかもしれません。

避難中、地面は焼けて熱く歩けないほどで、佐古の山を登って眉山の方へ逃げ、細い路地をおりて新町川を見たら、そこは死体がいっぱい。熱いし逃げるところがなく川に飛び込んだら、今度はそこを狙われ焼夷弾が落とされる。川の水はお湯となり、またそれで死んでいくのです。血の海で地獄のような光景でした。徳島の全体が火の海になり、残っているのは丸新百貨店と文具店のみ。一面焼け野原。生き残った人は何人おるんだろうなと話になったくらい。

それくらいしか記憶には残っておりません。

様々な悲惨な体験談

昭和20年7月4日未明、129機のB-29が新町川河口から徳島市上空に飛来し、約2時間もの間

焼夷弾を投下され続けました。

眉山付近に住んでいた入居者様(当時9歳)は逃げる途中で家族とはぐれ、一人で小さな溝で一夜を明かしたそうです。明るくなり母と再会出来ましたが赤子を抱っこして乳母車を押していた20㎝横に焼夷弾が落ちたが運よく命が助かったこと。自宅は無くなっており一面の焼け野原となっていたそうです。

佐古5番町に自宅があった入居者様(当時17歳)は焼夷弾が降りしきる中、頭にふとんを被り無我夢中で田宮川に逃げたこと。頭に直接あたった人もおり、一夜で徳島が地獄絵図になったこと。

食糧が無く芋などを育て、芋の蔓をお味噌汁の具にしていた話。

当時3歳だった入居者様にも戦争の記憶は残っており

竹やぶに逃げ込んだことや翌朝には包帯を巻いたり人、血を流している人が避難していたことを覚えているとのことでした。

「いまも世界では戦争しよる。勝っても負けてもどっちも悲惨。相手側の兵隊さんも犠牲者。

戦争はしたらあかんのよ・・・」

心からの言葉だと思います。

私たちは戦争を知りません。苦しい時代を生き抜いてこられた入居者様のお話を

これからも聞かせていただきたいと思います。

なお、本日の内容は日経新聞電子版にて掲載される予定になっております。